先週のことだけれど、アクタン・アリム・クバト監督『明りを灯す人』を観た。こちらの監督の作品は初見。なにか映画を観にいこうとしたとき、もともと気になっていたのだけれど、これならまちがいはないんじゃないかと考えて選択する。ちなみに他に候補にあがっていたのは『おんなの河童』。
はたしてこの映画、奇跡の映画だとおもった。
うまい脚本と呼ぶには足りないものがある。撮影に関しても教科書的な撮影法に照らしあわせたら誤りとするところが多々あるとおもう。
しかし、おもうに偶然がかさなって、奇跡の作品となった。
ロバと聞いて、馬とくらべるとちょっとまぬけでほのぼのした動物だとおもうだろうけれど、この映画が映した闇夜のロバは底冷えする恐ろしさをもっていた。
主人公が若い娘に恋慕を抱いて、彼女のいる家では彼女を愛してやまない祖母が写真をガラスケースに入れて飾っている。そこに映る主人公の顔。これがうっすら、「正しい」映画だったらはっきりと映るようにライティングや撮影角度を計算するのだろうが、その作為を感じさせない画がすばらしかった。
そして末娘の奇跡としかいいようがないかわいさ。あるいはこの娘を見るためだけに観てもいいのではないか。
そして物語の強さ。
キルギスという国についてなにも知らない。これをきっかけにちょっと調べて、地理が苦手なぽんこつ頭にはどこにある国かわかっていないが、イスラム教とロシア正教と、少数派の宗教がある国らしいと認識する。
映画を観て、なんの宗教が主流なのかと疑問におもって、それがイスラム教だとはおもわなかった。これはイスラム教への危うい先入観がなしたことだろう。イスラム教に対して、暴力をいとわない極端な厳格を、固定観念にもってしまっている。
政変が起こったと、あたりまえにセリフで出てくる。昨日まで正しかったことが、今日から誤りとなる。そして明日には今日正しかったことがまちがいとなるかもしれない。そんな土壌、日本にない。どこが政権をにぎろうと、大同小異。それに甘んじるものいわぬ自分たち。
背負ってるものがちがう。映画として甘くても、その背景が強力で、すごい、そうおもうばかりだった。
この映画をきっかけに、外国文学を読もうと自分に課しだした。
日本文学に偏重してしまうことが危ういことかもしれないとおもった。すこしまえに張芸謀監督の『紅いコーリャン』を観て、莫言の原作を読んで、ついでにいつ買ったかおぼえてない『白い犬とブランコ』を読んで、このまま外国文学の大きさをちゃんと見つめようと考えた。
そして、なぜ外国文学に親しんでこなかったのか、再認識した。コルタサル短編集『悪魔の涎・追い求める男』を読んで、描写がおおげさで、なんでそんなことにこだわるんだ、という感想を抱き、なにが自分になじまないのか肌で感じた。
けど、いまさらゴーゴリの『外套・鼻』を読んで、19世紀の物語のもつ力もおもう。
「この分署長は、あらゆる美術や工芸の大の奨励家であったが、何よりも政府の紙幣に愛着を持っていた。≪これに限るよ。≫そう言うのが彼の口ぐせだった。≪これに優るものはまずない。餌もいらねば、場所塞ぎにもならず、いつもかくしにおさまっていて、おっことしたとて――壊れもせずさ。≫」
この文章がすごかった。当時といまで事情は変わるかれないけれど、現代日本に照らしあわせて、古着買取を鑑みたら、いまだに生きる、普遍性をもつ文章だ。
日本の紙幣は偽造をふせぐため、通常印刷物はプロセス4色という藍・朱・黄・墨で色彩を表現するのだけれど(ああ、いやだいやだ、印刷屋みたいだ)、十数色(前に教えてもらったのだが正確な数字は忘れた)をつかって印刷している。美術、工芸品と読んでもおかしくない、特殊な技術なのだ。
紙幣だけじゃなくて、硬貨を落としても、あるいはおもいきり叩きつけても、まず壊れない。
そんな金にとらわれて、生きている。
いまさらゴーゴリがいいなんていうのは恥ずかしいとおもうのだけれど、読んでよかったな、とおもった。
けれど、日本の文学が世界にくらべて劣っているだなんて、ぜったいにいうつもりはない。19世紀のフランス文学が理想だなんて、いまを見ないで厚顔無恥にほざく「文芸評論家」みたいなことは、死んでもいいたくない。それをいったら、終わりだ。
日本文学だって、切実を、身近に描いている。それだけじゃない、いろんな日本文学がある。
日本文学が、好きで、好きで、たまらない。
いつか日本文学に帰ってくるために、無視できない日本文学を見つけるために、世界を見てみよう。